先日、友人夫婦と話してる中で「運」についての話しになり、その旦那さんが「私は運が良い」という話しになりました。
「何故運が良いと思うのですか?」と聞きますと、
その理由が、
「過去、交通事故にあった、だけどそのお陰で妻と出会えた」という話しでした。
さて、この話しの中で交通事故に遭うことは、けして運が良いとは言えないことですよね、
しかし、そのお陰で妻と出会えた運の良さがあるということを伝えてくれてます。
運とは何なんでしょうか?
今回は運について少しお話しできればと思います、よかったらお付き合い下さい。
運という川
運という話しは誰もが日常的な会話でも何気に触れることがあると思います。
この運が良くなることをめぐって様々な占い、数字、パワーストーン、パワースポットに出向くなどで運をよくすることに懸命になってる方の話しを耳にすることがあります。
まず運とは何かですが、言葉で表現するのはなかなか難しいのですが「流れ」と言えるのではないでしょうか、
つまり「良いように見える流れ」と「良くないように見える流れ」があるように思っているということです。
私たちの人生にはこの運と呼ばれてる流れがあるように捉えられていて、
それはまるで川のようです。
なので、私たちは人生という川の流れにのって、川下りをしていると例えれるのではないでしょうか。
運という流れに乗っていくと様々な障害物があります、
川に突き立つ岩だったり、
流れてくる漂流物だったり、
急な流れや渦だったりと様々です。
これらにぶつかることで「自分という乗り物」が転覆したり、引っかかって動けなくなったりすることが「運が悪い」という捉え方と言えるのではないでしょうか、
運が悪いことで自分が乗っていた乗り物が壊れたり、転覆したり、投げ出されたりすると言う例えができます。
なのでこれらの障害物を避けて目的地に行きたいという思いや、より自分が望む方向に難なく進みたいと思うのが心情ですよね。
そこで運の良い流れにするため、占い類いやアイテム、磁場を使って、障害物がない、又はより多くを手に入れる良い流れの方向に変えようにするわけです。
ではここで一旦視点を今回の夫婦に戻します、
旦那さんが伝えてたことは、
交通事故という流れがあったからこそ、旦那さんは妻と出会えました。
この「交通事故」とは不運と言える出来事ではないでしょうか、
しかし、不運を受け入れた先にあった「妻と出会えた」これは幸運ですよね?
不運を受け入れた先にある幸運…これは何なんでしょうか?
乗り越える強さ
今回旦那さんが選択してたのは、
「不幸を不幸ではなく幸運とする」捉え方だということが見えてきます。
ではどんな選択をしたのかと言うと、自分という乗り物(心の器)を強くする捉え方から繋がる幸運と言えると私は思ってます。
もし川を下る乗り物(心の器)がイカダであれば、岩場や漂流物と接触することで砕ける可能性があります、すると溺れてしまい、苦しみとなります、しかし心の器が頑丈なゴムボートならどうでしょうか?
砕ける可能性は減りますし、またライフジャケットを着ていれば投げ出されても溺れることはありません。
何が言いたいかというと、不運に向き合い乗り越える幸運があるということです、
表面的な運の捉え方だと、運という流れのコントロールをしたい選択になりますが、
潜在的な運の捉え方だと流れを乗り越える為に自分という心の器をどう成長するかの視点になります。
なぜなら、自分の人生という川になぜ障害物が存在するのかという話しになってきます。
様々障害物は避けるために存在するのではなく、乗り越えるために存在してるからです。
運の捉え方はそれぞれあると思いますが、さけて運を良くするのではなく、乗り越えて手に入る運があり、それは心の成長であり魂の成長であるということです。
もう少し分かりやすくお伝えすると、
もし運という流れの中で困難を避けたとしても、また同じような障害は起きます、
その時に乗り越えた経験があれば、経験が智慧となり、また障害が起きても乗り越えれます、そしてこの智慧は誰かに分け与えることができます。
禁止されてる占い
目に見えない心の世界「スピリチュアル」という視点では運を良くする話しを聞きますが、
もう一方の目に見えない心の世界「宗教」があります。
では宗教から見た運という流れや、占いとはどんな捉え方をしているのか見ていくと、
実はメジャーな世界宗教の多くは占いは基本禁止されている事実があります。
仏教では因果応報、縁起の元に起きた出来事には「意味」がある教えなので根本が違います、
キリスト教では聖書に「神の民は神のみに聞くべき」などの禁止が書かれてますし、
イスラム教では人知を越えるのは神の領域であり、占術や魔術はそれを犯してる捉え方もあって、派によっては占いをするだけで厳しい厳罰もあります。
世界的な宗教という「神仏の立ち位置が明確な世界」では「神から与えられた人生を通してどう学ぶかのテーマ」があります、その奥には魂の成長があり全ては必然であるという考えになります。
しかし、スピリチュアルという「神仏の立ち位置不明確な世界」では大元の宗教では禁止されてる仏陀、キリスト、天使などのカードで占ったり、それをもとにしたアイテムやツール、コンテンツがあったりと曖昧な世界感があります、もちろん全てとはいいませんが、その背景には魂という言葉を使いながらも今世限りの「現世的なご利益」や「欲求」を優先してる傾向があるのではないでしょうか。
運に翻弄される人生
では運を避けるや無いもの求める選択を、もし続けたとしたらどうなる可能性があるのでしょうか?
避けることや求めることが正しく見えて、また同じ選択のために運を良くする「何か」を求めてさまよいます。
そして人生の障害物を乗り越え学ぶということができなくなってきます。
それは運に依存し、運に支配されていく生き方と言えるのではないでしょうか。
運とは「人生の流れという捉え方」はできますが、それが「人生の本質」というわけではないです。
今回の旦那さんの運の捉え方は、私には不運とも言える困難をどう捉えるか、それが自分の器を磨く流れ(運)になり、幸せとなったことを教えていただける話しでした。
これは運に翻弄されるのではなく、運を魂の糧にする柔軟さとも例えれます。
心の豊かさ
人間の欲望とは限りないものです。
個々の視点として捉え方は様々ですが、
運を追うのではなく、今ある当たり前から幸せを汲み取り、自ら運を受け入れて流れと一つとなるのか、
運を追い続け、無いものの渇きを不幸とし、目の前にある幸せを汲み取れず、欲望という運に流され続けるのか、
選ぶのは自由です。
しかし「本当の豊かさ」は当たり前を当たり前ではないことに気づかされた時から始まるのではないてましょうか。
大きな病気になれば健康な幸せに気づき、
大切な人を失えば側にいてくれた幸せに気づき、
急に仕事を失えばそのお陰で生きる糧を繋げてた幸せが実はあったことに気づきます。
でもその多くは「失ってから気づく」ことが多いです、
無いものをねだったり、必要以上の欲を求めるのではなく、今ここに自分が存在できる「運」に気づくことが心の豊かさであり、幸運なのではないのでしょうか。
そして人間は「想像」することができます、「失ってから気づく」のではなく、「失ったことを想像し気づく」改めが心の豊かさに気づく近道になると私は信じてます。
今回も長くなってしまいました(笑)
もう少し短くまとめれるよう努力しようと思います。
このテーマを書くきっかけとなった友人夫婦には感謝です、ありがとうございました。
このブログを読んだ方の何かのきっかけになれば幸いです。
お付き合い頂きありがとうございました。
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