出来事としての視点
こんな話しを聞きました。
親元を離れ、寮生活を始めた息子さんが、その寮の共同トイレがとても汚く使うのに困っていたそうです、
寮母さんはいましたがキレイに掃除がされてなかったということです、
それを見かねた母親は「そんなに嫌なら他の寮に引っ越すかい?」と声をかけると息子は「いや、俺がトイレ掃除をやればいいだけのことだからやってみるよ」と言いそれからトイレ掃除を自らはじめました。
それから時間が過ぎ、母親が息子さんと話す機会があり、その時に息子さんが伝えた言葉は「ありがとう」でした。
このありがとうは、今までトイレ掃除をしたことのなかった息子さんがトイレ掃除をすることで、はじめて母親がやってくれてたこと、その思い、大変さに気づいた感謝の言葉でした。
と…ここまで聞くと親子の成長ある良い話しですが、この中に心の世界にとってとても重要なことが隠されてます。
それは「関心」を持つということです。
今回はこの「心の関心」についてお伝えできればと思います。
みなさんはどのようなことに関心をお持ちでしょうか、
関心って…人それぞれですよね、
関心になるきっかけがあり、そこから知ることをはじめ、
そして関心ごとが興味となりさらに深いところを見ている方もいると思います。
しかし同じ事柄に関心がない人から見ると、それがどうでもよい事柄に見えてることがあります。
これが心の世界でも起きてるということです。
どういうことかというと、
心の関心があって初めて、心、思い、愛に気づきその部分が分かりだすということです。
心の関心としての視点
ではさっきの話しに視点を戻してみましょう。
息子さんはトイレ掃除をして現状を変える選択をしました、トイレ掃除をする中で「お母さんはこんなことをいつもやっててくれたんだなぁ、知らなかったありがたい」ということを感謝と共に気づきました。
しかし、これがもしめんどくさい、適当でいいやということであればこうはいきません、
息子さんが母親がどんな気持ち、思いでやっていたかということが関心となって初めて母親の心に気づけたということです。
つまり関心を持たなければ、このことに全く気づくことができず、その心や思いを理解することができないということです。
言い換えると関心次第で同じ出来事からこのことに「一生気づけない」方もいれば「一秒で気づく」方もいるとも言えます。
この「関心」を持つとは人の心を知ろうとすることであり、知ったことから自分の心の幅を広げるということです。
もう少し広い視点でお伝えすると
自分の気づいてない「心の一部」を相手が気づいていて教えてもらえてるとも捉えれます。
自分が関心のないことはわからない、例えばもし、過去や未来を見通せる方がいたとしても関心がないことはわかりません、つまり見えてるのは自分の理解できる心の一部と、その時間状況だけです。
わからないことを私たちは自分の主観や憶測で判断しようとします、するとそのズレが自分と相手の心と心の摩擦が必要以上に生じることもあります。
心の世界はとても広いです、私たちが知らない心の一面も沢山あります、この「心の関心」を持ち、人の心を知り「こんな思いを持ってるんだなぁ」と気づくことが経験となり、心の幅を一歩一歩広げる行為が思いや愛の幅を広げると私は思ってます。
しかし関心を越え、必要以上の興味を持ってしまうと執着となり、引っ張られたり、動けなくなることもあるので「ほどほど」ということも大切です。
今回はこんな感じのお話しをお伝えさせていただきました、「心」を知り広げる方法の一つでもあります、もし参考になれば幸いです。
お付き合いいただきありがとうございました。
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