先日妻が、
「前は瞬間湯沸かし機のように、いきなり怒ってたのに今は無いよね、どうやってそれを押さえられるようになったの?」と言われました。
その中で色々な要因がありながらも、1番の理由は「自分を知ったから」押さえれるようになったでした。
みなさんは自分のことを知ってますか?
もし知ってるとしたら、どのくらい自分のことを細かく人に伝えることができますか?
今回は私のことを伝えながら「自分を知る幸せ」について探究ができたらと思います、良かったらお付き合い下さい。
言葉にできない意識
私は幼い頃から
「僕には名前があるけど、本当は誰なんだろう?何のためにここにいるんだろう?」
「僕は僕、他人は他人なぜ1つになれないんだろう?」
という考え(意識)が常にありました、一般的に見ると変わった子供だったと思います(笑)
しかし、これは今となって言葉として表すことができますが、当時はどう説明したらいいのかが難しく口にすることができなく、この考えを誰かに伝えることはできませんでした。
なので、親にも友達にも伝えることができなく、何だろうこの感覚とばかり思っていました。
私のブログを読んでいただくと、
「魂があり、そこから広がる人生がある」というのがテーマの一つでもあります。
今であれば、幼い頃の考えは魂から伝わるメッセージだとわかります。
しかし、当時に私は自分をどう表現していいのかがわからず、怒りという感情表現で自分を表してました。
相手との会話で自分が理解されない、もしくは押し切られそうになり自分の考えを伝える知恵がないので、代わりに怒りの感情をぶつけるというやり方です。
そんな時は、「どうせ言っても分からないから」というのが口癖でした。
すると自分が上手くいかないと、この感情に頼る(逃げる)傾向性が出てきました。
何でも怒りで解決しようとするです、
これは解決というか、ぶち壊しで終わりにしようというやり方でした、
みなさんの周りにこんな方いませんでしょうか?
私の場合は怒りでしたが、
反論の表現ができない場合は、辛さや悲しみという感情に自分を閉じ込めたり、その捌け口が欲望という快楽にいったり、
快楽に繋がる楽しみや喜びはあるけど、ふと気づくと満たされてなかったり、孤独が押し寄せる、
中には感情を敏感に受け取る方もいて、人よりも苦しくなる度合いが大きく、そのために感情を封じ込めてしまい無感情になる方もいます。
なぜこのようなことを聞くかというと、最近はこのような方とお会いしてお話しさせていただく機会が増えてるからです。
自分にある「内なる思い」を伝えられない、気づいていない、解放する術を知らない悩みとなり、「生きにくい」そんな方が多いなぁと感じてます。
クセという傾向性
さて話しに戻りますが、
この怒りを出した後には後悔がありました。
「やってしまった…」
カァーっとなり怒りの波長に囚われると謙虚の欠けらもなく、相手を無慈悲に責め、心ないことを言って傷つけてしまったりと歯止めが効かなくなりました。
少し話しが脱線しますが、
スマートフォンの写真を整理してると約10年前の写真データがありました、それを妻に見せると「この時の私、幸せそうじゃない顔をしてるね」と言いました、その時はなんて鋭いことを突いてくるんだと私は思いました。
なぜなら「その幸せそうじゃない」中には、私の怒りから来る人間性も一つの理由だと思いおこしていた瞬間だったからです。
このことを冷静に見てみると、
理由はどうあれ、私の怒りという自分の表現のために、彼女の「幸せを奪ってっいた」ってことです。
みなさんはこんな経験はないでしょうか。
愛するつもりが、幸せを奪うことに転じてた、そんな自分を知る瞬間でした。
改める必要性
私は怒りでしか表現できないこんな自分が嫌になってました。
だから変えなくてはならない!
しかし、何をしていいかわからないので、まずは「自分を知ろう」と思いました。
それからは怒りが込み上げたたびに、「自分を知る」行動の向き合いが始まりました。
その瞬間は制御できず、考えられないので感情を落ち着かせた時に、
「何が原因なのか?」
「そこに謙虚や感謝の気持ちはあったのか?」
「その感情は必要だったのか?」
「相手はどんな思いだったのだろうか?」
「同じことを繰り返さないためにどうするか?」
の改めと言う反省をするようになりました。
それと同時に、自分の考え(意識)や思いを怒りという感情表現で伝えるのではなく、言葉としての表現するための言葉を探し使えるようにするための旅も始めました。
しかし、やっても急に変わることはできませんでした。
ただ、改めを繰り返すうちに、自分が怒りに陥りやすいパターンがあることに気づきました。
今まではそれすら発見できなかったので、自分にとっては大きな前進です。
なので、いきなり大きな変化は望めない、でも0.1%でいいから自分を知り、至らないところを認め、改める、この積み重ねを1000回繰り返せば100%に近づき、変えられるのではと思ったのです。
本当にそれが100%となり、変えれるかどうかはわからない、だけど自分を変えるため、さらにやってみようと思ったわけです。
みなさんは自分を変えたいと思ったことはありますでしょうか?
それまで反省の「は」の字も知らない私です、自分はこのままでいいという思いに謙虚はなく、相手の理解力が足りない、自分ではなく相手が変わればいいという慢心たる時代もありました。
「そう簡単に人は変われない」という言葉があります、しかし小さな積み重ねが「心」を変えたいと願う私の挑戦でもありました。
等身大の自分
自分を改める行動を続けてると最初は、怒りの感情を「受け取れるか、受け取れないか」でしたが、
次第に受け取りができるようになり、受け取った感情を「受け入れるか、受け入れないか」の選択ができるようになりました。
そして、今では全てを受け入れるのが当たり前となってます。
受け入れた中にある「等身大の自分を知る」ことに気づいたからです。
それは怒りの感情という炎が揺れない心への移行体感でもありました。
怒りの感情に揺れない心は、烈火の如く怒りを燃やしてた世界とは真逆の平穏で穏やかな世界です、こんな観覚があると知りました、
そして同時に始めた、自分の感情を表現する言葉も拾い集め、少しずつ言葉として私という存在を伝えれるようになってきました、
それは意識を「表現できる言葉が足りない」のではなく、言葉の深い意味を知らない、そして思いを言葉に変換する方法もわからなかっただけでした、まぁそのお陰で独特な言葉表現になる場合もありますが(笑)
私はもっと自分を知りたくなりました。
「自分を知る幸福」がそこにあったからです。
それからは、揺れる感情を見つけては捕まえて、なぜそう感じたのかの探究をはじめました、
時には醜い自分に気づき、胸が痛む日々もありましたし、感情の平穏に辿り着けず、ずっと捕まえてたままの感情もありました。
でもそれが私だったんです。
それは紛れもない等身大の自分に気づき、弱い自分を認める学びがありました、「認めれるからこそ、変えれる」ことに繋がりました、
そして重要だったのは、
「感謝があって初めて認めることができる」という気づきでした。
認めなくては変化になりません、その変化を起こす入り口は素直であり感謝でした。
自分の弱さを認めることで、初めて他人の弱さも認めれる心となり、
認められたい、わかって欲しい、そして自分を守りたい、それが私の怒りの正体でした。
しかし、他の人に自分よがりの感情表現では認めてもらえるわけがありません、言葉にすることができなければ伝わることもありません、自分本意に守ってるばかりでは相手を受け入れる隙もありません。
全ての理由は外ではなく、全部自分の内にありました。
このことに気づけかせてもらえた、幸せがあります。
それとともに忘れてはいけないのが、私の怒りという感情で多くの奪い続けた不幸せがある事実です。
みなさんは幸福を奪い続けてる自分を想像したことはありますか?
多くの方が自分が作ってた枠を乗り越えた成長に感謝を掲げる気づきがあっても、そこまでにある足跡に大切なものを落としてきた事実を見ない方が多いと感じてます。
してしまったことは、刈り取らなくてはならない責任があります。
謝らなくてはならない人がいたり、
それでも側にいてくれ、ありがとうを伝えなくてはならない人がいたり、
この世界で許され、生かされてる感謝があります。
ここに気づかなくてはならない、自他の幸せがあります。
これは自分との向き合いだけでなく、他と向き合いがあってはじめて気づける幸せです。
私自身もこの経験を伝え、今ある幸福を分けることが循環となり愛という幸福の調和への架け橋であり、同じような悩みのある方へと光を繋げることだという確信があります。
だから伝え続けなくてはならない今があります。
自分を知ることは、人生を知る幸せがあり、
人生を知ることは、人生に隠された魂の目的を知る幸せがあり、
魂を知ることは、神仏に愛され、存在を許されて「今ここにいる」ことを知る幸せがあります。
長くなりましたが、今回は私の感情と思いの詰まったブログとなってしまいました。
お伝えさせていただいたことが何かのきっかけになったとしたら幸いです。
お付き合いいただきありがとうございました。
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